どうも、大牟田ひとめぐり編集長の阿部です。
先日、リオパラリンピックに出場された川野将太さん(大牟田出身)と浦田理恵さん(南関町出身)による講演会が開催されました。
川野さんは大牟田のご出身、浦田さんは近くの南関町出身。
リオ・パラリンピックに出場されているアスリートのお二人。
実際に講演会に参加してきました。
ご自身の障害、そして壁を乗り越えるまで
お二人のプロフィール
川野将太さん
福岡県大牟田市出身。
17歳の時、交通事故で頸椎(けいつい)を損傷し、胸から下と手指がまひ。入院中の総合せき損センター(飯塚市)で車いすテニスを知り、20歳を過ぎて車いすテニスのクァード(四肢まひ)クラスで競技をスタート。
◆競技成績など
ロンドンパラリンピック ダブルス4位
リオパラリンピック シングルスベスト16、ダブルスベスト8
現在、世界ランキング13位。
浦田理恵さん
熊本県南関町出身。
教師を目指していた20歳の時に急激に視力が低下し、「網膜色素変性症」と判明。現在は、左目の視力はなく、右目の視野も95%欠損しており、強いコントラストのものしか判断できない。26歳の時、ゴールボールに出会い、競技をスタート。
◆競技成績など
北京パラリンピック 7位
ロンドンパラリンピック 金メダル
リオパラリンピックでは、チームの主将として活躍。
川野さんと浦田さんはシーズアスリートに所属されており、午前中仕事、午後からトレーニングをされています。
▼当日はリオ・パラリンピックの時のジャージで登場
ご自身の障害についてお話をしてくださいました。
司会の方から、
「障害を最初から受け入れられた?」
という質問について、
川野さん:
医者にもう二度と歩けないと言われて、理解はできたけど、信じたくなかった。
リハビリを頑張ってもどうにもならなくて、絶望的だった。
浦田さん:
最初は周りに言えなかった。
「できなくなっていく=自分が劣っている。」
と思い、受け入れられなかった。
周りの目を気にしていて、
「見えない=コンプレックス」でした。
お二人とも、最初は受け入れることができなかったそうです。
そのお二人が壁を乗り越えたきっかけは何だったのでしょうか?
川野さん:
家族・友達が変わらずに接してくれて、前と変わらない場所に遊びに連れ出してくれた。
楽しくなって、家に帰らなくなってしまった時期もありました笑。
浦田さん:
家族に自分の病気のことを伝えた時に、
「福岡で、できることを続けて!」
と励ましてくれて、サポートしてもらえた。
自分の人生だから、親や友達がずっとサポートしてくれるわけじゃないと気付けたことで、自立する決意ができました。
周囲の方々の支え。
そして、ご本人の決意で壁を乗り越えていらっしゃいます。
辛い時期を乗り越えて、リオのジャージを着るまでに
お二人がスポーツと出会ったきっかけは何だったのでしょう。
川野さん:
せき損センター(飯塚)に入院している時に、車いすの選手が練習していたのを見て知りました。
その頃には普通の生活に慣れていて、何をしようかなと思っていた時期でした。
それなら、スポーツが好きだし、あの時に見たテニスをやってみようと。
浦田さん:
何かしないといけないとは思ったけど、どうしていいかわかりませんでした。
見えなくても何ができるかなと。身の回りの人で、目が見えない人がいなくて、自分だけだと思っていましたが、病院に行ったらたくさんいらっしゃいました。
その時の先生から、
「見えなくなって出来ないことでなくて、できることを数えてごらん。人生めっちゃ楽しくなるよ。」
その言葉がすんなり入りました。
手も足も動くし使えるものはたくさんある。自分の限界を作っていたのは、自分なんだと。
訓練学校で、できることを重ねて自信をつけてスポーツにも挑戦するようになりました。
東京パラリンピックに向けて
東京へ向けての意気込みをお二人が話されました。
川野さん
ロンドン、リオと悔しい思いをしたので次の東京では結果を残したい。
まだ障害者スポーツを見たことない方がいると思うので、ぜひ生で競技を見てほしいですね。
浦田さん:
ゴールボールと出会い気づいたことは、
見えなくなった、試合に負けた、などの悔しい思いは大きく成長し、感動できることにつながる。
ゴールボールをたくさんの人に知ってもらって、一緒に一体感を感じながら応援してほしいです。
東京大会で終わりじゃなくて、これから次につながる起爆剤にしていきたいです。
そのことが次世代の選手への応援になります。
2020年にオリンピック・パラリンピックが東京で開催されるということで、注目が集まっています。
東京大会で終わりではなく、障害者スポーツにより関心が集まるきっかけになるようにしていきたいですね。
ぜひ皆さんも生で競技を観戦されてみてください。